横川勘平宗利(赤穂義士)

「お軽勘平」のモデルは横川勘平ではない

よこがわかんぺい むねとし

横川勘平サムネイル

美作国(岡山県)出身の武士

赤穂浅野家に仕官した経緯などは分かっていないが、貞享四年、勘平二十一歳の頃に浅野家に仕える。

元禄七年二月には備中松山城(現岡山県高梁市)を公収のため、従軍した記録が残る。

横川家系図横川家家系図

横川家について

家紋:源氏車横川家家紋

討ち入り姿横川勘平討ち入り姿

祖父
  • 各務宗右衛門は浪人で作州に住み同地で病死
  • 横川祐悦(宗悦説あり)元森伯耆守武長家臣後浪人、赤穂在住 病死
  • 妾 父と同居で赤穂在住(親類書)
  • 名不詳 作州津山在住
  • 横川勘左衛門 行方不明義絶(親類書)
  • 森美作守家来各務助左衛門女

家老の家財を封印

元禄十四年四月二十二日に城下から逐電した家老、大野九郎兵衛父子の家財を目付として神崎与五郎と出向いて封印して保管した。

吉良邸探索

決行日決定の功労者

吉良邸での茶会に招待される人が無筆で勘平が代筆をしながら偵察をしていたところ、十二月十四日の茶会への招待に対する返事を頼まれる。

代筆して吉良邸へ文使いとしてそれを届け、吉良邸で茶会が開催されること、吉良上野介が在宅との情報を得ることに成功する。

大高源五の山田宗偏側からの情報と合致したことで十二月十四日の討ち入り日が決まる。

戦闘時に負傷する

討ち入り時に刀創を受ける。歩ける程度の傷だとする説と引き揚げの時かなりの傷で御船蔵から駕籠に乗り行列のかなり後から付いて行った説がある。

石板:赤穂市内横川勘平の石板

お軽勘平?

お軽勘平のモデルは間違い

仮名手本忠臣蔵の「お軽勘平」の勘平は萱野三平がモデルであるとする説や大石内蔵助が山科に隠棲しているときに囲っていた妾の「お軽」であるとす説などがあるが横川勘平がモデルではない。

辞世の句

[まてしばし死出の遅速はあらんともまっさきかけて道しるべせむ](介石記・鐘秀記)
[気懸りも なくて今年の 霞哉](赤城士話)
遺言は不詳です

横川勘平備忘録
生年
  • 寛文七年(1667)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 三十七歳
戒名
  • 刃常水剣信士
雅号
  • 横宗俊
妻子
  • 上に記載
家系
  • 本姓・藤原氏
  • 祖父宗右衛門と父は浪人して作州に住む。勘平の代に至り赤穂で浅野内匠頭に仕える
出身
  • 美作国(岡山県)
屋敷
  • 赤穂城下
役職
  • 徒目付・焔硝奉行
禄高
  • 五両三人扶持・新参
変名
  • 三島小一郎
仮寓
  • 輝長 二尺四寸
  • 脇差一尺八寸
討入切腹

赤穂四十七士と萱野三平

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