横川家・家紋
横川家系図
源氏車
討ち入り姿
祖父
父
- 横川祐悦(宗悦説あり)元森伯耆守武長家臣後浪人、赤穂在住 病死
母
姉
弟
妻
大野九郎兵衛の家財を封印
元禄十四年四月二十二日に城下から逐電した家老、大野九郎兵衛父子の家財を目付として
神崎与五郎と出向いて封印して保管した。
吉良邸探索
決行日決定の功労者
吉良邸での茶会に招待される人が無筆で勘平が代筆をしながら偵察をしていたところ、十二月十四日の茶会への招待に対する返事を頼まれる。
代筆して吉良邸へ文使いとしてそれを届け、吉良邸で茶会が開催されること、吉良上野介が在宅との情報を得ることに成功する。
大高源五の山田宗偏側からの情報と合致したことで十二月十四日の討ち入り日が決まる。
戦闘時に負傷する
討ち入り時に刀創を受ける。歩ける程度の傷だとする説と引き揚げの時かなりの傷で御船蔵から駕籠に乗り行列のかなり後から付いて行った説がある。
お軽勘平
お軽勘平のモデルは間違い
仮名手本忠臣蔵の「お軽勘平」の勘平は
萱野三平がモデルであるとする説や大石内蔵助が山科に隠棲しているときに囲っていた妾の「お軽」であるとす説などがあるが横川勘平がモデルではない。
預け先 三河岡崎藩水野家
泉岳寺の墓
横川勘平の墓
市内の石板
戒名
刃常水剣信士
遺言
不詳です
刀
輝長 二尺四寸 脇差一尺八寸
辞世の句
[まてしばし死出の遅速はあらんともまっさきかけて道しるべせむ](介石記・鐘秀記)
[気懸りも なくて今年の 霞哉](赤城士話)