倉橋伝助武幸(赤穂義士)

くらはしでんすけ たけゆき

倉橋伝助サムネイル

倉橋伝助

浅野家に仕えて二代

七歳の時に父を失う悲運にあっている。講談では幕府旗本の出で放蕩の果てに髪結になり、中間として奉公した話がある。前原伊助等と共に吉良邸の偵察に尽力し三十四歳の生涯を閉じました。

家族・家系図・家紋

倉橋家系図倉橋伝助の家系図

三がい菱倉橋伝助の家紋

妻子親戚

討ち入り姿倉橋伝助の画像

経歴 七歳で父を失う

講談 出身は元旗本?

講談などでは幕府旗本の出でありながら放蕩で身を持ち崩して木更津の髪結床に弟子入りし、浅野家に中間奉公したという逸話が残されている。

預け先 長門府中藩毛利家

泉岳寺の墓

戒名:刃段錬剣信士

倉橋伝助の墓泉岳寺:倉橋伝助の墓(戻る)

市内の石板倉橋伝助の銘板

辞世の句

不詳です

遺言

不詳です

広国 二尺七寸 脇差 二尺(浅野内匠頭拝領の刀使用説あり)
倉橋伝助備忘録
生年
  • 寛文十年(1670)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 三十四歳
幼名
  • 不詳
雅号
  • 不詳
変名
  • 十左衛門
家系
  • 本姓・清原氏
出身
  • 不詳
屋敷
  • 赤穂城下
役職
  • 扶持奉行・中小姓
禄高
  • 二十石五人扶持・二代
仮寓
  • 江戸本所林町五丁目
討入切腹

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