片岡家系図
[家紋]瓜の内釘貫
片岡源五右衛門切腹のあと妻子は尾張に帰えることができず、生活苦にあえいだと伝わる。
石板」赤穂市内
出世加増の少ない元禄時代に、初め百石であった俸禄が、十九歳で二百石、二十四歳で三百石、元禄十二年(1699)正月には、★三十二歳で三百五十石を給されている。
元禄十四年(1701)三月十四日内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は下乗で供待中、主君の刃傷を知らされ、鉄砲州上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸士に大事を伝え事態の収拾にあたった。
田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気付いたが、主従は共に声なく、今生の別れを惜しんだのであった。
討ち入りの時は表門隊に属し、富森助右衛門、武林唯七と三人組合って、真っ先きかけて屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字槍をふるって戦った。細川家にお預けののち、二宮新右柄門の介錯で、従容として切腹した。 赤穂義士会(転載)
討ち入り姿
生年
| 家系
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変名
| 仮寓
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刀
| 討入
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