実父
養父
- 片岡六左衛門(実父重次郎の弟で浅野長重に仕え百石)源五右衛門は八歳の時養子となる
実母
養母
兄
兄
兄
妹
妻
長男
- 新六 討入り当時十二歳、伏見両替町に住み僧籍に入り処分を免れる
次男
娘
浅野内匠頭の遺骸を引き取る
- 側用人兼児小姓頭として江戸城内で供待ち中に刃傷事件に遭遇、退去を命じられ鉄砲州の浅野屋敷に戻る。
- 家老と協議し国許への書状を書き、長矩の遺骸を泉岳寺に埋葬し髻(もとどり)を切って殉じる決意を表す。
- 内匠頭の初七日を済ませ、礒貝十郎左衛門と赤穂に向かうが主義の違いから城内での連盟には加わらず江戸に戻るが、堀部安兵衛ら在府の同志とも別行動をとり一時期孤立する。
- 元禄十五年の夏に東下した吉田忠左衛門のとりなしで行動を共にするようになった。
屋敷跡の説明板 赤穂義士会(転載)
場所を確認
源五右衛門は、
浅野内匠頭長矩公とは同年齢で、幼い頃から君側に召し出された寵臣であった。出世加増の少ない元禄時代に、初め百石であった俸禄が、十九歳で二百石、二十四歳で三百石、元禄十二年(1699)正月には三十二歳で三百五十石を給されている。
元禄十四年(1701)三月十四日内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は下乗で供待中、主君の刃傷を知らされ、鉄砲州上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸士に大事を伝え事態の収拾にあたった。田村邸において
切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気付いたが、主従は共に声なく、今生の別れを惜しんだのであった。討ち入りの時は
表門隊に属し、
富森助右衛門、
武林唯七と三人組合って、真っ先きかけて屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字槍をふるって戦った。細川家にお預けののち、二宮新右柄門の介錯で、従容として切腹した。
預け先 肥後熊本藩細川家
泉岳寺の墓
戒名:刃勘要剣信士
片岡源五右衛門の墓
辞世の句
不詳です
刀
国光 二尺六、七寸脇差 国重 尺不明
遺言
[先祖伝来の朱柄の槍を泉岳寺へ残してきた。これを遺族に渡していただきたい]