片岡源五右衛門高房(赤穂義士)

かたおかげんごえもん たかふさ

片岡源五右衛門サムネイル

片岡源五右衛門

出世街道をひた走る

家族と家系図と家紋

片岡家系図片岡源五右衛門家系図

瓜の内釘貫片岡源五右衛門の家紋

石板 赤穂市内片岡源五右衛門の石板

討ち入り姿片岡源五右衛門討ち入り姿

徳川縁故の家柄 実父や兄と義絶

実父熊井重次郎と腹違いの兄が尾張徳川家に仕えていたため絶縁状を送って仇討ちに加わる。
片岡源五右衛門切腹のあと妻子は尾張に帰えることができず、生活苦にあえいだと伝わる。
実父養父実母養母長男次男

浅野内匠頭の遺骸を引き取る

屋敷跡の説明板 赤穂義士会(転載)

場所を確認片岡源五右衛門宅地跡案内板

源五右衛門は、浅野内匠頭長矩公とは同年齢で、幼い頃から君側に召し出された寵臣であった。出世加増の少ない元禄時代に、初め百石であった俸禄が、十九歳で二百石、二十四歳で三百石、元禄十二年(1699)正月には三十二歳で三百五十石を給されている。
元禄十四年(1701)三月十四日内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は下乗で供待中、主君の刃傷を知らされ、鉄砲州上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸士に大事を伝え事態の収拾にあたった。田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気付いたが、主従は共に声なく、今生の別れを惜しんだのであった。討ち入りの時は表門隊に属し、富森助右衛門武林唯七と三人組合って、真っ先きかけて屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字槍をふるって戦った。細川家にお預けののち、二宮新右柄門の介錯で、従容として切腹した。

預け先 肥後熊本藩細川家

泉岳寺の墓

戒名:刃勘要剣信士

片岡源五右衛門の墓泉岳寺:片岡源五右衛門(戻る)

辞世の句

不詳です

国光 二尺六、七寸脇差 国重 尺不明

遺言

[先祖伝来の朱柄の槍を泉岳寺へ残してきた。これを遺族に渡していただきたい]
片岡源五右衛門備忘録
生年
  • 寛文七年(1667)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 三十七歳
幼名
  • 新六
性格
  • 頭脳明晰
変名
  • 吉岡勝兵衛
仮寓
  • 山城国伏見両替町筋銀座二丁目・江戸南八丁堀湊町
家系
  • 本姓・源氏
  • 近江源氏熊井氏分家
出身
  • 尾州名古屋
屋敷
  • 赤穂城三の丸
役職
  • 側用人兼児小姓頭
禄高
  • 三百五十石(譜代)
討入切腹

赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士)大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士)赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮
不参加萱野重實

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