戦闘では六十九歳ながら短槍で奮戦し、一人を突き伏せたと小野寺十内の手紙の中に残る。
間家系図
[家紋]三階松
[石板]赤穂市内
喜兵衛討入り姿
四十七義士の中では堀部弥兵衛に次ぐ高齢であったが、討入り時には、吉田忠左衛門・小野寺十内と共に大石主税を援けて裏門司令部を守り、逃亡してくる敵を突き臥せるなど立派な働きをしている。
吉良邸討入りには、長男十次郎・次男新六も加わっており、★親子三人も揃っていたのはこの間喜兵衛の一家だけである。討入り後は、細川家へ喜兵衛、水野家へ長男十次郎、毛利家へ次男新六というように別々に預けられ最後を迎えた。二月四日、切腹の時、堀内伝右衛門に遺言を訊ねられたが、草枕むすぶ仮ねの夢さめて 常夜にかえる春のあけぼの という一首の歌を渡したという。 赤穂義士会(転載)小野寺十内から丹への手紙のなかに「押し入って門の右の長屋の前にて出合たる男、先へ出しを我ら(十内)二槍に突殺し、後より出たるを間喜兵衛突伏せ申候。喜兵衛は門を守り、我らは北の裏口へ参り」と書いている。
切腹前に何か言い残すことはないかと問われての句
[草枕むすぶ仮寝の夢さめて常世に帰る春の曙](堀内伝右衛門覚書) 遺言:不詳です
生年
| 家系
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変名
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刀
| 討入
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