家族・家系図・家紋
家系図
討入り姿
家紋:三階松
父
母
妹
妹
従弟
妻子
妻妾
長男
次男
長女
次女
大石内蔵助と親戚
祖父 大谷四郎右衛門
大谷美濃守光将と名乗り娘が大石兵左衛門一定に嫁しており、
大石内蔵助とは遠い親類になる。
父親 間左兵衛光林
大石家と同じく近江国栗太郡田上庄に古くから住み田上の庄の間(はざま)に居て間姓を名乗る。初め江州膳所の戸田左衛門に仕えるが浪人した後、浅野采女正長重に仕え、関ヶ原の合戦以来の浅野家譜代の家臣となる。
吉良屋敷の戦闘で一人を突き殺す
短槍の柄に「都鳥いざ言とはん武士の恥ある世とは知るや知らずや」と書いた短冊を付けて裏門から攻め入り敵一人を突き殺している。
小野寺十内から丹への手紙のなかに「押し入って門の右の長屋の前にて出合たる男、先へ出しを我ら(十内)二槍に突殺し、後より出たるを間喜兵衛突伏せ申候。喜兵衛は門を守り、我らは北の裏口へ参り」と書いている。
屋敷跡説明板
場所を確認
間喜兵衛は、父の代から
浅野家に仕えた譜代の臣である。父は
山鹿素行の高弟で、喜兵衛も山鹿流兵学を学んだ。
喜兵衛は、信仰心も深く、文武両道に秀でた無口で温厚な人柄であった。最初から義盟に加わっており、内蔵助の命令に黙って従うという態度であった。四十七義士の中では
堀部弥兵衛に次ぐ高齢であったが、討入り時には、
吉田忠左衛門・
小野寺十内と共に
大石主税を援けて
裏門司令部を守り、逃亡してくる敵を突き臥せるなど立派な働きをしている。
吉良邸討入りには、
長男十次郎・
次男新六も加わっており、親子三人も揃っていたのはこの間喜兵衛の一家だけである。
討入り後は、
細川家へ喜兵衛、水野家へ長男十次郎、毛利家へ次男新六というように別々に預けられ最後を迎えた。
二月四日、切腹の時、堀内伝右衛門に遺言を訊ねられたが、草枕むすぶ仮ねの夢さめて 常夜にかえる春のあけぼのという一首の歌を渡したという。 赤穂義士会(転載)
預け先 肥後熊本藩細川家
泉岳寺の墓
間喜兵衛の墓
市内石板
戒名
刃泉如剣信士
遺言
不詳です
刀
無銘 二尺九寸 脇差 輝広 二尺一寸
辞世の句
切腹の前に何か言い残すことはないかと問われての句(堀内伝右衛門覚書)
[草枕むすぶ仮寝の夢さめて常世に帰る春の曙]