間喜兵衛光延(赤穂義士)

親子三人で討ち入ったのは間一家だけ

はざまきへえ みつのぶ

間喜兵衛サムネイル

関ヶ原以来の譜代の臣

大石内蔵助とも遠縁にあたる家柄、息子二人と討ち入りに加わる。

戦闘では六十九歳ながら短槍で奮戦し、一人を突き伏せたと小野寺十内の手紙の中に残る。

間家系図家系図

両親と兄弟

[家紋]三階松家紋

[石板]赤穂市内銘板

  • 間左兵衛光林
  • 浅野長重家臣・山鹿素行門弟
  • 知明寺十左衛門娘
  • 一柳土佐守に奉公
  • 土田三郎右衛門の妻(浅野内匠頭家臣)
従弟
  • 里村津右衛門(元赤穂藩士で丸亀在住)

妻子

妻妾
  • 正妻は居らず赤穂で十次郎、新六と二人の娘を得る
長男
  • 間十次郎(二十六歳)
次男
  • 間新六(二十四歳)
長女
  • 秋元但馬守家臣中堂又助に嫁す
次女
  • 母と共に赤穂在住(十六歳)

大石内蔵助とは遠縁

祖父 大谷四郎右衛門

  • 大谷美濃守光将と名乗り娘が大石兵左衛門一定に嫁しており、大石内蔵助とは遠い親類になる。

父親 間左兵衛光林

  • 大石家と同じく近江国栗太郡田上庄に古くから住み田上の庄の間(はざま)に居て間姓を名乗る。初め江州膳所の戸田左衛門に仕えるが浪人した後、浅野采女正長重に仕え、関ヶ原の合戦以来の浅野家譜代の家臣となる。

場所を確認間喜兵衛宅地跡案内板

屋敷跡説明板

喜兵衛討入り姿間喜兵衛の画像

間喜兵衛は、父の代から浅野家に仕えた譜代の臣である。父は山鹿素行の高弟で、喜兵衛も山鹿流兵学を学んだ。喜兵衛は、信仰心も深く、文武両道に秀でた無口で温厚な人柄であった。最初から義盟に加わっており、内蔵助の命令に黙って従うという態度であった。

四十七義士の中では堀部弥兵衛に次ぐ高齢であったが、討入り時には、吉田忠左衛門小野寺十内と共に大石主税を援けて裏門司令部を守り、逃亡してくる敵を突き臥せるなど立派な働きをしている。

吉良邸討入りには、長男十次郎次男新六も加わっており、親子三人も揃っていたのはこの間喜兵衛の一家だけである。討入り後は、細川家へ喜兵衛、水野家へ長男十次郎、毛利家へ次男新六というように別々に預けられ最後を迎えた。二月四日、切腹の時、堀内伝右衛門に遺言を訊ねられたが、草枕むすぶ仮ねの夢さめて 常夜にかえる春のあけぼの という一首の歌を渡したという。 赤穂義士会(転載)

吉良屋敷での戦闘で

一人を突き殺す

短槍の柄に「都鳥いざ言とはん武士の恥ある世とは知るや知らずや」と書いた短冊を付けて裏門から攻め入り敵一人を突き殺している。

小野寺十内から丹への手紙のなかに「押し入って門の右の長屋の前にて出合たる男、先へ出しを我ら(十内)二槍に突殺し、後より出たるを間喜兵衛突伏せ申候。喜兵衛は門を守り、我らは北の裏口へ参り」と書いている。

辞世の句

切腹前に何か言い残すことはないかと問われての句
[草枕むすぶ仮寝の夢さめて常世に帰る春の曙](堀内伝右衛門覚書) 遺言:不詳です

間喜兵衛備忘録
生年
  • 寛永十二年(1635)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 六十九歳
戒名
  • 刃泉如剣信士
幼名
  • 久八郎
家系
  • 本姓・藤原氏
  • 秀郷流藤原氏実際は蒲生忌寸の末裔
出身
  • 近江国
屋敷
  • 江戸藩邸
役職
  • 勝手方吟味役
禄高
  • 百石・譜代
性格
  • 実直で寡黙
妻子
  • 特筆事項に記載
変名
  • 杣莊(庄説あり)喜齋
  • 仮名手本:矢間喜兵衛光和
仮寓
  • 江戸新麹町四丁目大屋七郎右衛門店
  • 無銘 二尺九寸
  • 脇差 輝広 二尺一寸
討入切腹

赤穂四十七士と萱野三平

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