村松三太夫高直(赤穂義士)

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村松三太夫

むらまつさんだゆう たかなお

村松喜兵衛の長男で江戸城松の廊下での刃傷事件勃発時は二十六歳の独身で部屋住みの身分、親と同居して江戸に住んでいました。母に孝養を尽くせと諭す父親を振り切り初志を貫徹して義盟に加わり切腹してその生涯を閉じた。

独り言義士47人の中で「部屋住み」の義士は知名度もなくマイナーな存在。部屋住み=仕官前での参加は他に大石主税 間十次郎 間新六 間瀬孫九郎 小野寺幸右衛門と病死の父に替わって討ち入った岡野金右衛門 矢頭右衛門七がいます。この若き義士たちにも光があたればと願っています。

両親と兄弟と従弟

村松家系図村松家家系図

違い扇村松家家紋

実弟従弟

父親の命令

討ち入り姿村松三太夫の討ち入り姿

江戸詰めの父は浅野内匠頭の処遇に大いに憤激し、大石内蔵助は必ず仇討ちの挙に出るであろうと赤穂に行くことを決める。出立の前、三太夫には「生きて母に孝養を尽くせ。と命じる。

部屋住み(仕官前)の身分

気骨のある息子はひそかに後を追い大森、川崎と過ぎて神奈川で声をかけ、許しを得てともに赤穂に赴き義盟に加わります。
再び江戸に戻った三太夫は初め父とともに八丁堀にいましたが、芝源助町に居を移し礒貝十郎左衛門茅野和助らと同居して吉良邸の探索にあたりました。
討ち入りの際は、裏門隊に属し屋内に突入して大いに奮戦しました。

預け先 美川岡崎藩水野家

泉岳寺の墓

村松三太夫の墓村松三太夫(戻る)

市内の石板村松三太夫の石板

戒名

刃清剣信士

遺言

不詳です

無銘 二尺四寸 脇差 国助一尺六、七寸

辞世の句

[極楽を断りなしに通らばや弥陀諸共に四十八人]
村松三太夫備忘録
生年
  • 延宝五年(1677)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 二十七歳
妻子
  • 独身
性格
  • 気節のある人柄
変名
  • 萩野十左衛門・植松三太夫
家系
  • 本姓・藤原氏
出身
  • 武蔵国江戸(播州赤穂説あり)
屋敷
  • 江戸藩邸
役職
  • 部屋住み
禄高
  • 無禄
仮寓
  • 芝源助町(礒貝十郎左衛門や茅野和助と同居)
討入切腹

赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士)大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士)赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮
不参加萱野重實

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