家紋:丸に違い丁字石板:赤穂市内
元禄十五年、いよいよ討ち入りと決まってから、大坂に残してきた妻にあて愛情こまやかな遺書を書き送っている。
討ち入りの際、四十余人の面々は着衣の右肩に姓名を書いた名札を付けていたが、岡右衛門は盤珪禅師より授けられた英岳宗俊信士の法名を左肩にぬいつけ、裏門隊の一員として屋外での攻撃の任に当たった。松山藩松平隠岐守の中屋敷にお預けの後、翌年宮原久太夫の介錯で切腹したが、泉岳寺で役僧白明より求められて詠んだ一首が辞世となった。 思ひきやわが武士の道ならで「かかる御法の縁に逢とは」 赤穂義士会(転載)
赤穂開城時には国絵図奉行として潮田又之丞高教と共に残務整理にあたる。
慎重派であったらしく、第一次、第二次の仇討ち殉死の義盟には加わらず円山会議の席上で初めて連判しているが一貫して敵討ちを主張した説もある。討ち入り姿
前原伊助、神崎与五郎が討入に至る顛末を後世に伝える為に著した書で木村岡右衛門が跋文を漢文で立派に書いている。そのなかの句「良知之在人、不暫止。至剛至大之気、非万物一体哉」
生年
| 家系
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戒名
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変名
| 仮寓
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刀
| 討入
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