矢頭家系図
家紋:ちがい矢
浅野家断絶により赤穂開城手続きの際は大石内蔵助良雄の補佐役となり開城後の残務整理や塩田方や瑤泉院の化粧料など討ち入り資金になった金銭の出納を取り扱っていた。
義盟には当初から参加していたが病に倒れて元禄十五年(1702)の円山会議には息子を代理で出席させたが、元禄十五年(1702)八月十五日に四十五歳で無念にも大坂で病没する。独り言 右衛門七の父、矢頭長介は経理肌一筋の律義者。討ち入り資金の完璧な管理ができたのもこの人があってのこと。それにしても部屋住みの十七歳の息子に仇討ちを託すとは。その罪、息子の切腹か斬首と家族の連座は分かっていての決断であっただろう。小心者の私には理解しがたいその強固な精神力に平服する。この親にしてこの子ありか。涙
石板:赤穂市内
墓所は前橋市立川町にある大蓮寺で戒は自性院深誉源宝妙心大姉、享年八十五歳。註:姉弟は備忘録欄に記載
叔父が越後松平大和守の家臣であったことから、新居の関所説があります。
路銀を使い果たす結果となり、同志の面々が金を出し合って母と妹を赤穂の知人に預けたと、お預け中の浪士が話していたと書き残っている。(堀内伝右衛門覚書)
討ち入り姿
右衛門七の父長助は勘定方二十石五人扶持で、赤穂開城後、大坂に引き移り、同志との連絡にあたっていたが、病に倒れてしまったので、元禄十五年(1702)七月二十八日の京都円山会議には右衛門七が父の代理として出席した。
はじめ大石内蔵助は★あまりにも年若の右衛門七を同志に加えることを許さなかった。しかし、同志に加えてもらえなければ切腹もしかねないという必死の面持ちの右衛門七の姿に、内蔵助はついに右衛門七を父長助の代わりに同志に加えたという。
八月十五日、父長助は「わが志を継ぎ、必ず亡君の仇を報じてくれ」との遺言を残し、息を引きとった。
討ち入りの際には、父の戒名「円月霜光居士」と記した紙片を兜頭巾の裏に収めて攻め入った。表門組に属し、早水藤左衛門、神崎与五郎らと共に、刃渡り三尺あまりの長巻を揮ってあっぱれな若武者ぶりを示したという。
水野家にお預けののち、杉源助の介錯で切腹した。紅顔の美少年だったという。 赤穂義士会(転載)
生年
| 家系
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兄弟
| 変名
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刀
| 討入
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