千馬三郎兵衛光忠(赤穂義士)

千馬三郎兵衛サムネイル

千馬三郎兵衛

ちばさぶろべえ みつただ

浅野内匠頭の不興をかう

百石から三十石へ減禄の処分を受ける。これでは忠誠は誓えないと致仕を願い出た時に刃傷事件が起きる。

私憤より公憤が勝ると一命を賭して討ち入りに加わった人で武士の鑑。

家族と家系図と家紋

千馬家系図家系図

七星に月家紋

千葉氏の末裔で戦国時代に浪々の身となり先祖の名を汚したとして千馬に改めたという。光忠は三男として生まれ、浅野家臣で同族の千馬三郎兵衛の養子となり名を継いだ。
実父実母女児後妻長男

討ち入り姿千馬三郎兵衛討ち入り姿

忠義とは?を考える

独り言強固な精神と信念があっての諫言か。意見の齟齬で左遷なのに藩のために命を投げ出すのである。そういえば一大事勃発に「遅れてならじ」の配慮?屋敷は西城門を出てすぐのところ。戦国時代を生きた古武士の風格を感じる。いつの世も光忠のような人に光の当たる社会であって欲しい。

屋敷跡の説明板

場所を確認千馬三郎兵衛宅地跡案内板

三郎兵衛は赤穂藩家臣千馬三郎兵衛光利の養子となり、義父の死後家督を継いだ。三郎兵衛の名は、義父の名を襲名したものである。実父は千馬求之助といい、永井日向守直清の家臣であった。

三郎兵衛は、有職故実に詳しく武家の礼法や手紙の書式・書法にも通じていた。その性質がすこぶる剛直一片で容易にその主張を曲げなかったという。

そのため主君浅野内匠頭の不興を蒙っており、暇を乞うて浪人し赤穂を退去しようとしていたところへ、恰も元禄十四年三月十四日の刃傷事件が起きた。

浅野家への恩に義を厚くし、大石内蔵助に申請して義盟に加わった。江戸では原三助と変名して、間喜兵衛十次郎新六らと同宿し探索などを行った。討ち入りは裏門隊に属し、大石主税らと共に裏門内屋外の警戒に当たり、半弓を使い奮戦した。のちに松平隠岐守(伊予松山藩主)へお預けとなり、波賀清太夫の介錯で切腹した。 赤穂義士会(転載)

預け先 肥後熊本藩細川家

泉岳寺の墓

千馬三郎兵衛の墓泉岳寺:千馬三郎兵衛(戻る)

市内の石板銘板

遺言

不詳です

辞世の句

不詳です

戒名

刃道互剣信士

庚高 二尺四寸 脇差 同作 二尺
千馬三朗兵衛備忘録
生年
  • 承応二年巳歳(1653)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 五十一歳
幼名
  • 不詳
雅号
  • 不詳
性格
  • 頗る剛直で義に厚い
変名
  • 原三助・千葉三郎兵衛元忠(仮名手本)
家系
  • 恒武平氏で鎌倉幕府に仕えた御家人
出身
  • 不詳・播州赤穂説あり
屋敷
  • 赤穂城下
役職
  • 馬廻・宗門改
禄高
  • 百石から三十石に減禄・二代
仮寓
  • 江戸新麹町四丁目大屋七郎右衛門裏
討入切腹

赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士)大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士)赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮
不参加萱野重實

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