私憤より公憤が勝ると一命を賭して討ち入りに加わった人で武士の鑑。
千馬家系図
七星に月
討ち入り姿
独り言強固な精神と信念があっての諫言か。意見の齟齬で左遷なのに藩のために命を投げ出すのである。そういえば一大事勃発に「遅れてならじ」の配慮?屋敷は西城門を出てすぐのところ。戦国時代を生きた古武士の風格を感じる。いつの世も光忠のような人に光の当たる社会であって欲しい。
三郎兵衛は、有職故実に詳しく武家の礼法や手紙の書式・書法にも通じていた。その性質がすこぶる剛直一片で容易にその主張を曲げなかったという。
そのため主君浅野内匠頭の不興を蒙っており、暇を乞うて浪人し赤穂を退去しようとしていたところへ、恰も元禄十四年三月十四日の刃傷事件が起きた。
浅野家への恩に義を厚くし、大石内蔵助に申請して義盟に加わった。江戸では原三助と変名して、間喜兵衛・十次郎・新六らと同宿し探索などを行った。討ち入りは裏門隊に属し、大石主税らと共に裏門内屋外の警戒に当たり、半弓を使い奮戦した。のちに松平隠岐守(伊予松山藩主)へお預けとなり、波賀清太夫の介錯で切腹した。 赤穂義士会(転載)
市内の石板
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