江戸城松の廊下での刃傷事件以後
一貫して吉良討ち入りを主張する急進武闘派だったが大石内蔵助の説得で耐え忍んだ結果が悲願成就につながる。
家紋:丸の内にすはま
石板:赤穂市内
息子の義士兵左衛門は孫大夫を継ぎそのまま馬廻兼武具奉行として赤穂藩浅野家に仕えるが藩主浅野内匠頭の起こした江戸城松の廊下刃傷事件で二度目の改易に遭遇し浪人となる。
討ち入り姿
「臣下の身として当の敵を見逃しては武士の道が相たたぬ」と早期の仇討ちを主張し続けるが、お家の再興を第一義とする大石内蔵助は吉田忠左衛門、近松勘六、原惣右衛門、中村勘助、大高源五らを江戸に派遣したり再三にわたる書簡での説得など孫太夫ら急進派の鎮撫に大変な苦労をしている。
大石内蔵助の伏見撞木町での遊興の時期と一致するのは偶然なのか。
七月十八日になり浅野大学長廣の宗家広島への差し置きが決まりお家再興の道が断たれた結果、七月二十八日の京都円山会議で復讐を一決し、吉良討ち入りへ突き進むことになる。
独り言 江戸定府(勤務)の奥田孫太夫は仇敵吉良上野介を目の前にして毎日を暮らすのである。市井の口さがない話や[腰抜け]などと陰口を耳にすることもあったであろう。江戸定府の赤穂浪士に急進派が多く、大石内蔵助が鎮撫の為に派遣した原惣右衛門らが江戸に入って翻意したのも肯ける。
生年
| 家系
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仮寓
| 変名
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刀
| 討入
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遺言・辞世の句 ともに不詳です |
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