奥田孫太夫重盛(赤穂義士)

奥田孫太夫サムネイル

奥田孫太

おくだまごだゆう しげもり

真心影流の剣客だった奥田孫太夫は堀部安兵衛らと共に一貫して吉良邸討ち入りを主張する急進武闘派だった。
紆余曲折の末、大石内蔵助の説得で耐え忍んだ結果が悲願成就につなかった。

家族と家系図・家紋

奥田家系図奥田孫太夫の家系図(戻る)

丸の内にすはま奥田家家紋

兄弟息子異母

主君の刃傷事件二度の悲運

義士奥田重盛は当時、兵左衛門と名乗り志州鳥羽城主内藤和泉守忠勝に仕えるが、赤穂藩浅野家二代藩主采女正長友に嫁す城主忠勝の姉「波知」に付いて寛文二年(1662)十六歳で赤穂に来る。

増上寺刃傷事件

延宝八年(1680)六月二十八日に芝増上寺で起きた。鳥羽藩主の内藤忠勝が恨みから丹後国宮津城主永井伊賀守尚長を刺殺した事件、これで内藤家は改易となり父孫太夫は浪人となる。
息子の義士兵左衛門は孫大夫を継ぎそのまま馬廻兼武具奉行として赤穂藩浅野家に仕えるが藩主浅野内匠頭の起こした江戸城松の廊下刃傷事件で二度目の改易に遭遇し浪人となる。

真心影流 剣客

討ち入り姿吉良屋敷討ち入り姿

堀内元左衛門正春門下で堀部安兵衛とは同門の間柄。江戸定府であり敵である吉良上野介を前にして仇討ちを強く主張した急進派。

討ち入り迄の紆余曲折 急進派

浪人となった奥田孫太夫(当時は兵左衛門)は堀部安兵衛、高田郡兵衛らと赤穂に赴き「一同籠城の覚悟ならば城を枕にしよう」と、四月五日江戸を出発する。十四日夜に赤穂に着いたが既に開城に決した事を聞いた三人は大石内蔵助の元へおしかけ籠城を強硬に主張するがついに内蔵助の説得に応じ江戸に帰り時期を待つことになる。
「臣下の身として当の敵を見逃しては武士の道が相たたぬ」と早期の仇討ちを主張し続けるが、お家の再興を第一義とする大石内蔵助は吉田忠左衛門近松勘六原惣右衛門中村勘助大高源五らを江戸に派遣したり再三にわたる書簡での説得など孫太夫ら急進派の鎮撫に大変な苦労をしている。大石内蔵助の伏見撞木町での遊興の時期と一致するのは偶然なのか。
七月十八日になり浅野大学長廣の宗家広島への差し置きが決まりお家再興の道が断たれた結果、七月二十八日の京都円山会議で復讐を一決し、吉良討ち入りへ突き進むことになる。

独り言江戸定府(勤務)の奥田孫太夫は仇敵吉良上野介を目の前にして毎日を暮らすのである。市井の口さがない話や「腰抜け」などと陰口を耳にすることもあったであろう。江戸定府の赤穂浪士に急進派が多く、大石内蔵助が鎮撫の為に派遣した原惣右衛門らが江戸に入って急進派に翻意したのも肯ける。

預け先 肥後隈本藩細川家

切腹前夜 切腹の練習をする

「切腹をしたことがないからどうしたらよいか御指南下さい」と言って、切腹前夜に切腹の練習をしたところ、富森助右衛門正因が「ただ首を打たれればよい」とのやりとりが「堀内伝右衛門覚書」に残る。

泉岳寺の墓

戒名:刃察周剣信士

奥田孫太夫墓泉岳寺:奥田孫太夫(戻る)

市内の石板奥田孫太夫の石板

辞世の句

不詳です

遺言

不詳です

国高 二尺四寸・脇差 一尺六寸
奥田孫太夫備忘録
生年
  • 正保四年(1647)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 五十七歳
幼名
  • 兵左衛門
変名
  • 西村清右衛門(医者と称する) 奥田孫太夫重成(仮名手本)
討入
家系
  • 本姓 藤原氏 尾張国奥田が本領地でのち近江の佐々木氏に仕えた
出身
  • 志摩国(鳥羽内藤和泉守家臣)
屋敷
  • 江戸藩邸
役職
  • 武具奉行(江戸定府)
禄高
  • 百五十石・新参
仮寓
  • 江戸深川八幡町・深川黒江町
切腹

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