系譜と家系図と家紋
貝賀・吉田家系図
丸に重ね扇
実父
養父
実母
妻子
実兄
甥
姪
赤穂城開城時の役目
討ち入り姿
城の東側の熊見川(現千種川)川岸に並ぶ米蔵から二の丸倉庫に米俵を運び出す。
神文返し
血判状を携え同志を訪ねる
元禄十五年(1702)浅野大学の本家差し置きが決まり浅野家再興の望みが断たれた後、
円山会議が開催されて
武士の一分をかけた敵討ちが決まる。
かって盟約を交わした同志の真意を探るため大高源五と共に血判状返却の使者となり上方同志の
意思を見届ける重要な役目を果たした。その結果、義盟参加者百三十余名が五十余名に激減した。
綿屋善右衛門(天野屋利兵衛のモデル)
- 綿屋善右衛門は京都烏丸通リ室町二条上ルに店を構えた呉服商で、宗家広島浅野家や赤穂浅野家のご用を務め、天野屋利兵衛は善右衛門がモデルとの説がある。
- 大高源吾との連署で二十六両を借用している。
- 兄の吉田忠左衛門ともども善右衛門と親しく交わっており、江戸下向後も手紙による交友を続け、江戸潜伏中の浪士の暮らしの様子を知る貴重な資料となっている。
屋敷跡説明板 赤穂義士会(転載)
場所を確認
弥左衛門は
吉田忠左衛門の実弟で、母の実家である貝賀新兵衛の家を継いだ。
兄に劣らぬ誠実で重厚の士であったので、
大石内蔵助の信任も厚く、同志の真意を探る神文返しの命を受け、
大高源五とともに、京・大坂・播州の神文提出者を訪ねている。内蔵助に仇討ちの意志がなくなったと告げ、神文を一人一人に返す。それを受け取れば盟約から外し、志操堅固な者には真意を話すという重要な役を果たした。
赤穂開城後は京に住み、浅野家御用商人の綿屋善右衛門に身を寄せていた。善右衛門は生活に困った他の同志や家族に多くの援助をしている。
討ち入りは
表門隊に属し、表門内や長屋付近を固める役についた。兄の吉田忠左衛門と甥の
吉田沢右衛門・
岡嶋八十右衛門も討ち入りに参加している。
のちに
松平家へお預けとなり、大嶋半平の介錯で切腹した。
預け先 伊予松山藩松平家
泉岳寺の墓
戒名:刃電石剣信士
貝賀弥左衛門の墓
市内の石板
辞世の句
不詳です
遺言
不詳です
刀
大小共に無銘 尺不明