弥左衛門は微禄ながら信頼が厚く円山会議後の神文返しでは仲間の真意を探る重要な役目を果たします。
貝賀・吉田家系図
家紋:丸に重ね扇
兄に劣らぬ誠実で重厚の士であったので、大石内蔵助の信任も厚く、同志の真意を探る神文返しの命を受け、大高源五とともに、京・大坂・播州の神文提出者を訪ねている。
内蔵助に仇討ちの意志がなくなったと告げ、神文を一人一人に返す。それを受け取れば盟約から外し、志操堅固な者には真意を話すという重要な役を果たした。
赤穂開城後は京に住み、浅野家御用商人の綿屋善右衛門に身を寄せていた。善右衛門は生活に困った他の同志や家族に多くの援助をしている。
討ち入りは表門隊に属し、表門内や長屋付近を固める役についた。兄の吉田忠左衛門と甥の吉田沢右衛門・岡嶋八十右衛門も討ち入りに参加している。のちに松平家へお預けとなり、大嶋半平の介錯で切腹した。赤穂義士会(転載)
石板:赤穂市内
討ち入り姿
城の東側の熊見川(現千種川)川岸に並ぶ米蔵から二の丸倉庫に米俵を運び出す。
かって盟約を交わした同志の真意を探るため大高源五と共に血判状返却の使者となり上方同志の意思を見届ける重要な役目を果たした。その結果、★義盟参加者百三十余名が五十余名に激減した。
生年
| 家系
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変名
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刀
| 討入
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遺言及び辞世の句 ともに不詳です |
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