吉田沢右衛門兼定(赤穂義士)

吉田沢右衛門サムネイル

吉田沢右衛門

よしださわえもん かねさだ

吉田忠左衛門の三男

元禄十四年の凶変時は部屋住み(蔵奉行説あり)の身で二十九歳。開城後は父と共に加東郡に退きひたすら時機を待つ。兼定を兼貞とする書もある。

家族・家系図・家紋

吉田家系図吉田親子家系図

丸に剣花菱吉田家の家紋

叔父

父と共に・・・

六十を過ぎた父親が仇討ちのために奔走する姿をみて元禄十四年七月二十八日の円山会議前後より同志に加わっています。八月下旬に京都を発ち下向し、九月二日に江戸に到着。父とともに新麹町六丁目大屋喜右衛門裏店に同居し、以後吉良邸の探索に奔走します。吉良邸への討ち入りでは表門隊に属し岡島八十右衛門小野寺幸右衛門と共に突入して本懐を遂げます。

討ち入り姿吉良邸討ち入り姿

寺坂吉右衛門の面倒をみる

伊藤十郎太に嫁し本多中務大輔の家臣として仕えた夫を支える。

父の忠左衛門と兄の沢右衛門が切腹した後は寺坂吉右衛門夫妻を引き取り長年生活を共にする

次兄の吉田伝内が伊豆大島での連座の刑を終えて江戸に帰った時、寺坂吉右衛門に出迎させ江戸で僧籍を得るべく世話を命じている。

美男子

赤穂藩浅野家随一の美男子と伝わります。

預け先 長門府中藩毛利家

泉岳寺の墓

吉田沢右衛門の墓泉岳寺:吉田沢右衛門(戻る)

市内の石板吉田沢右衛門の石板

戒名

刃当掛剣信士

遺言

不詳です

辞世の句

不詳です

水田 二尺九寸 脇差 水田 一尺八寸
吉田沢右衛門備忘録
生年
  • 延宝三年(1675)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 二十九歳
幼名
  • 不詳
変名
  • 田口左平太・町人 佐助
妻子
  • 独身
討入
家系
  • 本姓・藤原氏
出身
  • 播磨
屋敷
  • 播州加東郡
役職
  • 蔵奉行(部屋住み説あり)
禄高
  • 十三両三人扶持・譜代(無禄説あり)
仮寓
  • 江戸新麹町六丁目大屋喜右衛門裏店 間瀬孫九郎 不破数右衛門と同居
切腹

赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士)大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士)赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮
不参加萱野重實

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