
大石内蔵助は3部構成
赤穂城三の丸屋敷 広さは1900坪
大石邸長屋門
大石家三代が57年間にわたり生活をした
大石邸は
赤穂城三の丸にあり大手門をつきあたった所(当時は大手門を入って右に曲がり多門をくぐって左に曲がった所)で家老職藤井又左衛門の屋敷の左隣りにありました。
広さ千九百坪余りで本邸は享保十四年(1729)に焼失。長屋門と庭園が残っています。
浅野家断絶後、永井家の家臣篠崎長兵衛の屋敷の後、森藩の藩札の紙漉場になりました。明治になり家老藤井又左柄門の屋敷跡を中心に
大石神社が創建され現在に至っています。
赤穂を去る
赤穂御崎から船出
大石内蔵助名残の松
御崎下の新浜港
(現:伊和都比売神社)から大坂へ向かい元禄十四年(1701)六月二十五日に大坂に着いています。内蔵助名残の松は昭和二年に松食い虫により枯れ現在は二代目。初代の切り株が
花岳寺に保存されています。
京都山科に隠棲 池田久右衛門の誕生
赤穂藩の重臣進藤源四郎(四百石)の縁地で山科西野山村に源四郎を元受人として千八百坪の土地を購入し一年四ヶ月滞在する。現在地は京都市東山区山科西野山桜ノ馬場町。三月二十一日には山科近辺の土地を探して欲しい旨大石家の一族である石清水八幡宮の大西坊、専成坊、正之坊の三人に宛て、手紙を書いていて大石内蔵助のあだ名「昼行灯」とは真逆の迅速な対応に内蔵助の真の姿をみることができる。昭憲皇太后が詠む御詩に(明治十二年七月)大石内蔵助と題して「梅の花雪に埋もれて人知れず春をや待ちし山科の里」がある。
山科を選んだ理由
- 京都東山と逢坂山との谷間の南へ広がる盆地で、東海道に近く京都や伏見にも近くて地理的条件が良かった。
- 石清水八幡宮は祖父大石義勝以来の縁地でそこの大西坊には内蔵助の弟、専貞が常住しその後内蔵助の養子覺連(叔父小山源右衛門の子)も入っていたこと。
- 江州石山の東の大石村には大石家の縁者も多く、特に浅野家の家臣進藤源四郎(物頭役四百石)が山科西野山村に先祖から田畑を所有していたので頼り、源四郎の身許保証を得て田地を買い入れ母方の姓である池田久右衛門と名乗って住居を構えた。
- 幕府の取り締まりが厳しく浪人が住居を構えるには庄屋、年寄、村役人の許可が必要だった。
遊興姿の内蔵助
山科での乱行 真意は?今でも謎
吉良の親族である伏見奉行の建部政字が大石内蔵助の動静を看視していたこともあり「ずぶ六と見せて心は酔いもせず」が内蔵助の本音であったのでは?と思いたいところです。
山科での乱行が江戸急進派の
堀部安兵衛や
奥田孫太夫らとの間に意見の違いがあり、義盟が分裂寸前の状態の時期と符合するのは単なる偶然なのか。
伏見橦木町に通う人を「白魚大臣」といった。遊び代が九匁程度に対し京都から橦木町の駕籠代が五匁二分で駕籠代と遊び代が同程度だったことから竹代の高い白魚にちなむ。ちなみに、当時の祇園の遊女代金は三十匁程度だった。
お軽の話 本当だった!
[おかぢ] [おかや] [可留]だったとも云われる。生家は二文字屋で京都二条寺町で出版業とも古道具屋をしていたとも伝えられる。又、京都島原中ノ町の娼家の女だったとの説もある。
十八歳で四十四歳の内蔵助のところに小間使い兼側女として入ったのは諸書が一致している。
子を宿すが子供のその後は不明。内蔵助は大西坊住職に宛てた手紙で、寺井玄渓や養子の大西坊覺連に生まれる子の将来を頼んでいる。
[お軽の墓]
京都上善寺に墓があり「清譽貞林法尼」が戒名。京都柴野瑞光院の過去帳には「清譽貞林法尼」正午三癸巳十月六日二十九往生二条京都坊二文字屋可留久右衛門妾也」とある。(註)正午三癸巳は正徳三年(1713)にあたります。